2009年5月21日木曜日

芝浦工業大学 湯の丸高原寮の閉寮



芝浦工業大学 湯の丸高原寮の閉寮

大学時代はアルペン競技のスキー部に所属していまして合宿や居候に30年以上もお世話になって来た寮が閉鎖になりました。寮長夫妻が定年となった事と建物の老朽化も重なっての事でしたが、想い出が多いだけに残念でした。


ウッドウイルを立ち上げてからは休みなど何時でも取れそうで取れないのが自営の辛いところです。でも閉寮式には感謝の気持ちを込めて参加してきました。


写真は寮長夫妻と私(白上着)、同僚(黒上着)です。











 



以下は閉寮記念の記念誌に投稿したものです。私にも熱い若い頃があった訳です。




湯の丸高原寮記念誌発行に寄せて
お世話になった湯ノ丸高原寮
1981年電気工学科卒
Ⅱ部スキー部代表 柴田喜美雄
大学入学と同時に入ったⅡ部スキー部、先輩達の技量に驚き、来るシーズン合宿前に
何とか練習をと考えたのが湯ノ丸高原寮を長期間利用させていただき、
個人合宿をする事でした。事情を説明して学生課で許可をいただいた数日後の事、
湯の丸の寮長から電話がありました。一人での長期利用は面倒見切れないから
居候になさいと。決められた仕事を片づければ後は自由に練習なさいとの事です。
大学には許可を得たからと、言われるままに白銀の湯の丸へ着く事となりました。
荷物を置いてさてどうしたものかと思案していると何をぼやぼやしていると一括!
さっさっと滑って来いと言われて始まったのが湯の丸高原寮との関わりの始まりです。

Ⅱ部スキー部ではOBと現役の親睦目的の競技会を開催しており、各地で開催して
おりましたが、私が当地に居候している関係でアルペン競技に必要なコース設定等の
準備に都合良く、それ以降は本年2月迄の30数年間、競技会とスキー部の合宿として
利用させていただきました。居候も何代も続き、影響を受けて工学とは離れるも
寮長と同業を生業とする者や寮長夫妻と親戚関係となるOBも現れる程に我が部としては
寮と親密にお付き合いをさせていただきました。

私もその影響を受けた一人で長野県人となって20年近くになります。
忘れられない想い出の一つに寮長とスキー競技会に遠征参加し、転倒、頭部に軽症を負い
帰って来た寮での夜中の発熱、急ぎ地元病院のICU室に入院した時の事です。
その時寮長は大学を解雇になる事を本気で覚悟したそうなのですが、
実は気が付かぬうちに私は風邪を引き始めていたのだという落ちが付きました。

寮長はスキー指導員でありますから、これ程我が部にとって幸運な事はありませんでした。
私を含め、どれ程多くの部員が寮長に適切な指導をしていただいた事か知れません。
我が部では寮長夫妻を親しみと尊敬を込めて“とうやん”、“かあやん”と
呼ばせていただいています。幸いな事に寮は年毎に設備を改善させていましたが、
実は寮の快適性や利便性を向上させて来たのは寮長夫妻の暖かいもてなしがあった
からこそと強く思っています。

食堂から見たカラマツ林の若葉の美しさ、ベランダに遊びに来る野鳥達の姿とさえずり声、春一面を覆うレンゲツツジ。じいやん(寮長の父)らが始めた三方が峰のコマクサ再生や
池の平の高山植物群。早朝登山中にカモシカと一緒に歩いた事もありました。
四季折々の素晴らしい自然が何時も私達を厳しくも優しく迎えてくれました。
そんな環境を提供してくれた湯の丸高原寮と大学に感謝の気持ちで一杯です。

Ⅱ部制度が無くなり我が部も廃部、今後はOBの親睦団体として活動する事に。
湯ノ丸高原寮閉寮とも考え併せると時代の流れかとは思いますが、寂寞の思いに
強く囚われるのは私だけでは無いと信じます。

暴風雪の中、除雪していた頼もしいとうやん、いつも美味しい料理をお腹一杯食べさせて
くれた優しいかあやん。ありがとうございました。そして長い間ご苦労様でした。
私達は紛れもなく若く熱い思いを湯の丸高原寮で燃焼させていたのだと思います。




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